オールタイム・ベストの一本になった。
誇張でも何でもなく、ロメロは、21世紀の、テロの時代の、ポスト9.11の、黙示録フィルムをつくった。
これをゾンビ映画の集大成とするだけでは決定的に不足だ。
『ナイト・オヴ・ザ・リヴィング・デッド』は伝説のカルト・ムーヴィーであることはたしかだが、同時にあまりにも70年代的だ。ゾンビ三部作、 トム・サヴィーニによる『ナイト』リメイク、そして90年代に姿を現わした『ゾンビ』ディレクターズ・カット――それらすべてを含めて70年代的だった。
要するに人びとが口にするロメロ伝説はノスタルジアに包まれていた。
いったいこうした形でロメロのゾンビ映画が復活してくることを、だれが想像しただろうか。
要塞都市の境界に拡がるスラム、中心には巨大な塔が立ち、独裁者デニス・ホッパーが君臨する。
ゾンビ狩り傭兵部隊の副官チョロは、迫撃砲を搭載した装甲トラック「デッド・レコニング号」を奪って反乱を起こす。
独裁者は討伐部隊をさしむけるが、その一方、「知性」をそなえた進化ゾンビの群れがタワー・シティの防衛線を突破してくる。
ゾンビ狩りから帰還した傭兵隊長のライリー(サイモン・ベイカー)が娼婦スラック(アーシア・アルジェント)と出会う前半。
眩暈のするような既視感に驚いた。
難民キャンプのようなスラムの歓楽街。
捕虜にしたゾンビを見世物にする秘密の館。
鎖につながれたゾンビと記念写真を撮る者たち。
金網に囲まれた闘技場リングでゾンビとの肉弾戦を強制されるスラックを、間一髪のところで救うライリー。
こんなシーンをかつて観たことがある。
一時期、レンタル屋の棚にあるゾンビものは総ざらえで観ていた。
その記憶なのだろうかと疑った。いや、ちがうな。
ゾンビ・ホラーの九割五分はカスだ。クソだ。
つまりロメロ以外は全滅。この確率はかなり悲惨なのだ。
ピンク映画なら十本観れば二本はあたる。
ゾンビ・ホラーにはその程度の確実性すらない。なかった。
こんな素敵なシーンがあったはずがない。
『ランド・オブ・ザ・デッド』の前半を観ながら、そうだ。
まるで、自分がかつて書いた小説のシーンに出会ったように興奮してしまったのだ。何という……。
『ナイト・オヴ・ザ・リヴィング・デッド』以上の夜がここにある。
ゾンビ三部作、トム・サヴィーニによる『ナイト』リメイク、そして『ゾンビ』ディレクターズ・カット。
それらの映像の断片がおそらく悪夢のように充満して、わたしに現実の記憶にも似たいくつかのシーンを幻視させたに違いない。それをまたスクリーンのうちに観ることの恐怖と恍惚!
動けなくなってしまった。
それからチョロを演じたジョン・レグイザモが最高。
べつに贔屓でもなかったが。
『エグゼクティブ・デシジョン』以来、いい役がつかなかった。
スパイク・リーの惨憺たる『サマー・オブ・サム』の主役とか。『コラテラル・ダメージ』のつまらない殺されっぷりとか。
この映画でよみがえってくれた。
バイク部隊を率いてゾンビの群れを襲撃する冒頭もいいけれど、とくに終わり近くゾンビに噛まれた後のセリフが泣かせる。
ゾンビに噛まれた生者は感染ゾンビになるという「ルール」。
数限りなく繰り返されてきたゾンビ映画の不文律。
「頭を撃って一発で殺してくれ」と仲間に頼むのが一つのパターンだった。
ところがチョロは、銃を向ける仲間に「ちょっと待ってくれ。ゾンビになるのも悪くねえかもしれん」と言うのだ。
ぜんぜん恰好よくない。恥じらい半分の粋がり方がぴったりくる。
チョロはゾンビ狩りの傭兵としてゴミのように生きてきた。
その彼だからこそ言えるセリフだ。彼でなくてはいえない。
レイグイザモでなくては言えない。彼でなくては似合わない。
ゾンビ映画最高の決め科白だな。
ロメロ映画は、常にマイノリティの人種対立の問題をゾンビ現象の陰画として際立たせてきた。
ゾンビは社会のゴミだ。老廃物だ。だからその掃除人もゴミ同然の社会階層の役目となる。
彼らマイノリティの行く先は、生きているにしろ死んでいくにしろ、暗いのだ。
ゾンビがグローバリゼーションの時代においても有効な比喩であり、社会批判イメージでありうることを、ロメロは完膚なきまでに証明した。
そしてレグイザモの肉体も。
もういちど観たい。
何回でも。