B級映画へのかなり厳密な定義がここにはある。
主要に論じられる作家は、
ジョゼフ・H・ルイス
アンソニー・マン
リチャード・フライシャー
後の二者の作品なら知っているが、ルイスの映画は観たことがなかった。
ルイスのキャリアをみると、TV版『ライフルマン』の何作かで監督作は終わっている。
六〇年代初頭だから、当方としては「年代的に観る機会を持たなかった」作家に属している。
マンの『ララミーから来た男』や『ウィンチェスター銃73』は子供のころ観ているけれど、何しろ記憶ははかない。
『エル・シド』や『ローマ帝国の滅亡』と、史劇は部分的に少し憶えている。後者にはずいぶんがっかりしたものだ。
フライシャーでは、『ヴァイキング』(これはリバイバル上映だったはず)や『バラバ』。
やはり史劇の監督だというイメージが最初にあった。
ところが、この本『B級ノワール論』によれば、今あげたタイトルは、西部劇以外は各作家のB級時代から外れる、ということだ。
この本で役に立った事柄、もしくは論調への共感や疑問点など、評価にまつわることはさておき、映画の観方(その様態)についていろいろ考えさせられた。
この本において、論述対象映画作品は、スクリーンに映されたものではなく、すべて複製データの形態だったようだ。
作品を分析的に観るために一時停止したり、部分的に繰り返したりする鑑賞法、また、当該作品の製作に関する補助情報への広範なリサーチ、などの作業は、論考のための基礎的な過程として欠かせないものだ。
ここでは、書物の個人全集を資料として読みこむように、映画作家の全作品を(外国映画であっても)すべて観ておくことが当然の前提になっている。
外国映画の場合、従来は制約が大きかったにしろ、今では作品をデータとして取得することがまったく不可能ではない状況になっている。その意味では、この本には研究者に課される水準を高度に設定したといえるだろう。
ことの是非はともかく。
DVDソフトのリストに希少な作品が見つけられることはたしかだし、インターネットによってデータを渉猟・鑑賞する方法も選べるだろう。
映画はもともと「複製技術時代の芸術」の典型であるように受け取られてきた。
ところが、そうした理解は少しも正確ではなかった。そのことが明瞭になってきているのではないか。
かつては、映画は映画館で観る以外の方法では観ることができなかった。
つまり映画館こそが映画にまつわるオーラだった。映画館と映画とは一体だった。
そこへ出かけることは、映画作品を観るという直接の行為ときってもきれない固有の体験だった。
一期一会。それだけスクリーンと真剣に向き合った、ということになる。
今日、デジタル化された映像はたんなるデータだ。
DVDにシーン・セレクションがあるのは当然だし、コンピュータでプレーヤー・ソフトを使ってあるシーンの停止画像をキャプチャーすることも自由だ。
さまざまの動画フォーマットの変換ができるなら、iPodでの歩きながらの映画鑑賞も可能なのだ。
デジタル・データだから、コピペもたやすい。
こうしたモノがオーラを付属させた鑑賞よりも、研究の材料にふさわしいのは自明のことだ。
映画の「複製技術性」は、デジタル・データの時代に極まったといえる。
個人的にと限定したほうがいいかもしれないが、B級映画というジャンルを、この本のような厳密な規定とはまるで別個に、かなりアバウトに理解していた。
それらは個別の作品であるよりも、むしろある時期の生活習慣とともにあった記憶の欠片だったような気もする。
映画館に必ず何週おき(毎週だったかも)に通うことの副産物。
作品のタイトル、作家はもとより、主演俳優にいたるまで、憶えていることは稀だ。
だからDVDボックスなどで復刻される作品群に、その瞬間だけ「喪われた時を求めて」を呼び起こされて気恥ずかしくなることが、たびたびある。
けれども、映画研究というジャンルは、かつて映画が帯びていた魔力からかぎりなく離れていくところにしか実現しないんだろうな。