幻の連合赤軍映画について

 映像ブランキスト若松、自己の作品世界を全面展開・一点突破する。
 前に『俺は手を汚す』を読んだとき、映画作家はやはり喋って志を伝えるもんじゃないと失望したことがあるので、今度の本『時効なし。』も、あまり期待はしていなかった。
 ところが無類に面白い。語るべきとき、熟した時期があるのだと納得した。
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 ここでふれておきたいのは、その内容全般についてではない。
 作家が抱負を述べている「幻の連合赤軍映画」その一点についてだ。

 (山荘のなかから)銃を撃った瞬間に、そこの氷柱が光る。
 その光った瞬間に、フラッシュ・バックで彼らが仲間を粛清したシーンを挿入する。
 これが革命だと思うからこそ、彼らは自分の仲間さえ粛清した。
 ましてや敵に対しては、その意識がないと立ち向かえない。
 だから、警察に向かって、初めて銃を向ける。

 ――若松のなかで、映画のデティールは、すでにこんなふうに見事に出来上がっている。
 あさま山荘に立て籠もった五人を内部から描く、その凝縮されたイメージに、革命運動が不可避に持つ正負の両面が映しだされる。
 この一点だけでも、わずか一シーン語られたのみでも、この映画が若松固有のものであり、若松以外のだれにも作りえない作品であることは明らかに感得できる。

 作る前に映像を逃れがたく、前のめりに私有すること。
 これを、作家の業であると解するだけでは、絶対的に不充分だ。
 連合赤軍事件を総括する若松の観点は非常に明快そのものだ。
 銃撃戦も同志殺しも、どちらも単独にはありえなかった。二つにして一つだ。
 彼らの運動の敗走は、そのどちらの局面をも単独に切り離しては了解できない。

 ともすれば多くの論者の関心は、十六名の同志粛清の側面にのみ向かうようだった。
 それは同志殺しが、六十年代末からの反権力闘争の衰弱を決定づけ、後からふりかえれば象徴化するような事項であった以上、避けて通れない偏向だったと思える。
 そして粛清=同志殺し=内ゲバは、連赤関係の十六名という規模にはとどまらず、他セクトにも疫病のように波及し七十年代を通じて百名をこえる死者を数えていったのだ。
 そこまで、日本の革命運動は悲惨な軌跡を刻みつけてこなければならなかった。
 殺せ。
 敵を殺せ。

 敵を殺せ、というスローガンは味方のなかの敵を掃討する方向に肥大し、自らの存立根拠すらも噛み破ってしまったのだった。

 ここで「同志粛清は正しかった」と断固いいきった者はだれもいなかった。
 しかし粛清は正しかった。しかり。正しかったというほかない。
 彼らの闘いに一片の正当性でもあったなら、それは正しい行為として救われねばならないのだ。

 でなければ、殺された者らはいったい何のために命を捧げたというのか。
 彼らの犠牲すらも唾棄されるのでは、われわれは何の教訓も得なかったということになる。
 森、永田などの不適格なリーダーのために無駄死にを遂げたと解釈するのでは、あまりに議論が卑小すぎる。

 私見によれば、一九七五年に書かれた埴谷雄高の『死霊 第五章』が、同志粛清を正当化する、最も美しい形象を提出しえた。
 わたしもまた『煉獄回廊』において、同志=愛する女を粛清して恥じない日置高志という主人公を通して、この問題を追跡しようとした。しかしわたしの主人公は狂気の隘路から這いあがることができず、したがって小説も「正しい同志殺し」を明確にできないまま漂流せざるをえなかった。
 愛しているから殺す――それが絶対に正しいと、作者も主人公も確信できなかったのだ。

 結局それは、同志粛清のみを単独に銃撃戦という契機から取り外してしまった以上、必然にくる失敗だったのだろう。

 幻の若松映画は――いまだ作られてはいないし、もしかすると作られずに終わるかもしれない連合赤軍映画は――彼らが負った二重性を、まるごと映像によって暴力的に全面展開・一点突破しようとする。
 彼らの撃つ銃弾は、ただ五人によってのみ放たれるのではない。
 その銃弾には粛清された同志たちの無念の魂が祈願されているのだ。
 彼らが同志を殺した償いのために銃撃戦を闘って戦死しようとしたとするヒロイックな解釈も語られたが、それだけでは充分ではない。
 共に闘えなかったにしろ共にある。
 そうした現存は、映像だけが可能にするユートピア空間かもしれない。

 ……あと三十年、五十年経っても残る映画を撮りたい。
 あの事件をやるんだったら、今、悪いけど、せめて俺とか足立(他のだれにも出来ないから)が生きてる間にやらないと。

 わたしは『突入せよ!「あさま山荘」事件』などは最初から観る気もないし、これからも観ないだろう。
 原作のほうは必要があって読まざるをえなかったけれど。
 また『光の雨』も観ていない。
 観るに足ると思えるだけの興味をまったく引かれなかった。
 連合赤軍事件は、この時代を生きた者にとっての熱病的なテーマだ。
 生きているうちにはこの難問に解決をつけられないとも思わせる。
 多くの作家がそれに題材を得ているが、そのすべてに目を通していないし、目を通す義務感も感じないのは、わたしの倨傲さだろう。
 外側からみた見世物、興味本位の活劇、無残に破れ去った青春の夢の記録。
 おおかたのフィクション化が帯びる不正確さに、ふれる前から腹立たしくなってしまうのだ。

 だが若松がつくるだろう作品は違う。
 まったく違うと期待させる。
 わたしは別に映像ブランキスト若松のファンでもない。
 一定以上の評価を持つわけでもない。
 しかし幻の連合赤軍映画に関しては、特別の興奮をかきたてられたのである。

05.04.13記

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